娯楽三昧

迷宮式娯楽三昧・全年齢版

【ネタバレ】天気の子は何を殺したのか

「天気の子はセカイ系を終わらせた」
「天気の子は傲慢な大人を殺した」
「子供であることを肯定した」

天気の子の感想やレビューを拝見したときに見るワードといえば、この辺りだっただろうか。
天気の子は新海誠監督の新作映画にして00年代エロゲのPS2コンシューマ移植版グランドルートのモダナイズリメイクとしても評価された作品わけです。
いやマジですごい。エロゲエロゲ言われてるけどそれを一般人にも見られる大衆化のオブラートを包んでいるのが「君の名は。」で培った技術を完全にものにしている感じがする。

ただし、自分は「天気の子が大人を、セカイ系を、殺した」系の言説にイマイチしっくり来ていなかった(批判ではなく)。
たぶん、天気の子は実際に「なにかを殺した」のだ。ただ、殺した対象がそれらで正しいのか悩んでいた。

翌日には答えが出ていたのだけど、一週間置いて「やっぱり、これしかないな」と思ったので「天気の子が殺したモノ」について考えていく。



ただ、大前提として自分はこの映画は「セカイ系」ではなく、けいおん!とかまんがタイムきららのような「日常物」だと感じた。というか、「君の名は。からしてそうだ。

新海誠の作家性について

新海誠の優れている作家性の部分は既婚者なのに童貞の視点があることだなぁ~!!

という冗談半分のことはさておき、自分が強く評価しているのは現代人のマイナス感情へ理由を付ける手腕だったりする。

君の名は。では「理由のない喪失感」だった。就活をしながら本当の自分じゃないような、これでいいのかわからない。おそらく多くの現代人が体験するような不安感に「それは過去にこんな経験をしていたが、忘れていたからだよ」と物語を付与した。
このありきたりな不安感の上にエピソードを載せるのが本当にうまくて、君の名は。の場合は無力感を抱く現代人に対する「いつか運命に出会う」という生きていくことに対するエールにもなった。

普遍的な感情をベースに物語を展開するのはストーリーテリングの基本中の基本なわけだけど、それは物語中に回収されるメインプロットとかの骨子にするものであって、こんな風に設定の基盤にすることはあんまりない……と思う。
では天気の子の設定の基盤になっている、現代的なマイナス感情とはなんだろうと思ったとき、考えついたのが罪悪感と焦燥感だった。
自分が自分として生きてもいいんですか? こんな状況なのに?
というのと、
特別な理由もないけど、理由がない=自分に物語がないというのがどうしようもなく不安

この辺りの社会的圧力、全体主義的な空気に押しつぶされそうで、光の中に入りたがって足掻く話を帆高と陽菜を通してやりたかったんだと思う。

帆高というキャラクターの現代性について

主人公である帆高は行動がぼんやりとしている。
家出に劇的な理由もない。小説版では精々が父親に殴られたことくらいで、「こんな大それたことをする?」とすらなってしまう。
もしこれがスペクタクル映画だったりするなら理由には物語のテーマに根ざす重大な物語が必要だし、そうしなければ物語の主人公が帆高である必要すらなくなる。
が、これらを度外視にして主人公を没個性にできるジャンルがあって、それがエロゲだった。
エロゲは通常個性を持たされる主人公は汎用的になり、舞台も学園など汎用的になり、攻略キャラでバリエーションをつけたりする。(例外もある)

ただ、この特別に劇的な理由のない帆高という主人公こそが、現代人に対して必要な主人公だった。
現代はエロゲ主人公を求めていた。

自分は小学生の頃、同級生の突発的な家出に付き合わされたことがある。理由は覚えてない。つまりどうでもいいということだ。
自分も小学生のとき、突発的に家出した。理由は思い出せない。つまりどうでもよかった。多分些細なことだと思う。
家出なんてそんなものだ。子供がやりがちな家出だとか、自分の命を盾にして親に言うことを聞かせようとするのは、彼らが子供だからだ。子供だからこそ、家庭や境遇といった自分自身の存在が他人の承認によって成り立つモラトリアムから脱したくなる。

けれど、家出も命を人質にすることも、子供がすることはある種の甘えに基づいている。帰りたくないという感情も怒りという感情も嘘はないけど、社会だとか他人だとかの助けのうえに成り立っているのだから、それは家庭で庇護されるときとなんら変わらないのだ。

帆高がネカフェで寝泊まりしていたとき、あれは商取引によって生活していたから、誰かを頼ったわけではない。けれど、何度も何度もYahoo!知恵袋に質問をした。大人(親)から脱しようというのに、より経験豊富な大人に頼ろうとしているのだ!
そしてK&Aに転がり込んで仕事をするのも、自分の力で切り盛りしているようで、実際の給料は3000円。家賃と食費を貰って携帯代も払って貰っているときたら、これはもう「実家でお小遣い貰いながら生活しているのと何が違うのか?」だ。

帆高はその後も大人に頼る。初めて陽菜の家に訪れたときに帆高が着ていたシャツにすら現れている。
あのシャツ、どう見ても須賀のお下がりである。肩は落ちているし、裾は座ったときにたるんでいるほどに長い。オーバーサイズに着こなしたいという感じでもない。のちのち、須賀の回想でかつてそのシャツを着る須賀が出てきて決定的となる。さらには、退職金としてボロボロの帽子まで渡される。帆高もその帽子を逃亡中にずっと付けている始末だ。
疑似家族という状況設定を使い、血のつながりではない愛情を育むとかそんなことはしない。庇護下から逃れたかった少年が別の誰かに庇護された当たり前の無力さがひたすらに続いている。

ただ、服飾という点に着目したら帆高がただ庇護されていたわけでないのもわかる。
陽菜と一緒に事業を始めたときのことだ。
仕事が好調で、帆高はお下がりではなくジャケットを羽織るようになった。家出したときから着ている白いTシャツの上にジャケットを羽織り世間に対して武装して、自分は大人なんだと決めて見せる。立派になってきたとも思えるが、その実それは冒頭に何度も出てきたヤクザたちがスーツを着てるのと同じだ。武装だから、ジャケットは世間に対する威嚇にすぎないのである。
だから陽菜と話すときはジャケットはくしゃくしゃに丸めてその辺においておくし、帆高は心までジャケットに見合う大人になったわけではない。白いTシャツを着た無垢な男の子のままだった。年下の女の子を年上だと思って頼り切ってしまっている。
それが決定的になるのが、退職金として渡された帽子を素直に被り続けてしまうところだと思う。

天気の子が突きつけるのは、いくら大人ぶっても子供は子供だという無情は現実である。
では天気の子が殺したのは、少年少女たちの世間に対する反感だろうか?

そもそも大人ってなんだ

というか、そもそも帆高がなろうとしていた「大人」ってなんだ?
この作品で大人の代弁者といえば須賀、夏美、須賀の義母、立花さん、高井、安井あたりか。
帆高が憧れた大人らしい言動は以下の辺りか。
「書く側も見る側もありえないなんて承知の上で見てる。娯楽なめんな(意訳)」
で、小説版では明確に感動したと表記されている。
そんな大人の須賀は陽菜が犠牲になることで東京が救われることに対して「ひとりの犠牲で全員が救われるならむしろいいじゃん」と数の合理で割り切る。

リアリスト、酸いも甘いもかみ分けたような人物像。
帆高の視点で見たとき、須賀はうさんくさいが東京で頼れる最後のよすがに見えた。
けど、そんな須賀を真似る帆高の思考に夏美が言ったのは「なにそれ、つまんない大人になりそう」だった。

つまんない大人って?

作中に出てくるつまんない大人といえば誰かといえば、安井と高井でしかありえない。ふつうに有り得る、ふつうの大人たちだ。名前が適当なのもその証拠だし、キムラだってそうだ。彼らの名前や存在なんて帆高たちの物語にはどうでもいいから名前も適当で、パーソナリティが描写されないのも風立ちぬで主人公への野次が言葉ではない騒音そのものとして描写されていたのと同じだ。

彼らは障害として登場以降、3年後の東京でも姿を現すことはない。
この作品で描かれる大人とは一種類ではなく、「(つまらないと表現された)一般的な大人」、「羨ましくなるスゴイ大人」の二種類だ。
大人になるとはつまらなくなると同義ではなく、選択できて、そして帆高が大人に憧れている以上「vs大人」は成り立たない。vs大人の物語ではない。

須賀と夏美は子供だった

夏美は小説でも明言されているし、映画でも就活が上手く行っていない。完全なモラトリアムの人間だ。つまり、帆高からしたら相対的に大人に見えるだけで、大人ではない。
これは須賀も同様で、彼も大人ではなかった。アダルトチルドレンというわけでもない。須賀は作中で、禁煙をしていると宣言したときに「でもあなた、そういうことしてるように見える」と信用してもらえない。実際、すぐ手の届くところにタバコを置いている。誰かを肩に乗せる責任を持てていない。そういう意味でモラトリアム。

須賀も夏美も、帆高のように「自分の居場所がここではない」「光の中に入りたい」と思っている。
光の中とは何者かになりたいでもあるし、社会の一員でもあるし、マジョリティなコミュニティ、など様々な隠喩だろう。

天気の子の敵は大人だったのか?

違う(断言)。
高井と安井という大人でも、ましてやキムラでもない。
「大人になれよ、少年」という世間からの同調圧力だろうか?
その大人という言葉に反抗して子供であることを肯定する物語が天気の子だったのだろうか。
正直言って違うと思う。この物語は明確にモラトリアムを脱する物語だからだ。
だいたい帆高の選択で子供も迷惑を被ってるわけで……。

大人たちは無責任に「今の子供は四季を知らなくてかわいそう」だの「人生を棒に振ってるでしょ、彼」と傲慢にも哀れみ、「子供たちだけじゃ問題がある」と私生活に踏み込もうとする。
でもこれらはすべて大人にヘイトを向け、子供である主人公たちを肯定するようなミスリードだ。
だって、四季がない世界とか実際にさみしい。いつも雨が降ってるなんて最悪だし、前科持ちの少年は就職で苦労するだろう。子供たちだけじゃ苦労するのだって本当で、陽菜は体を売る一歩手前ですらあった。
たとえ四季がなくなるだとかそういった問題が大人の勝手なノスタルジーで、犠牲の上になりたつ平和だとしても、別に「犠牲の上で成り立ってるなんて当たり前のこと」だし、それを指弾するのは無理筋だ。まるで自分が誰も犠牲にせず生きているかのような言いようになってしまう。

じゃあ天気の子が、帆高が倒すべきラスボスはなにかといえばなにか。
神様か、運命か、はたまた世界か。

まあラスボスなんていないんですけど。

帆高の選んだ大人の選択

ティアマト彗星という神と戦ってすべてを得た君の名は。と違って、天気の子は神を殺せない話だ。では、神を殺せず、世界かキミかの二択を迫られたとき、主人公が選ぶべきはどちらなのか。この物語はこの二択で、主人公がキミを選び、その後の物語のためにあった。

ふつうに考えたら須賀の言う通り、世界をとる。
帆高はキミを執ったが、これは紛れもなく「子供のわがまま」ではなく「大人の選択」だった。
直前に帆高は凪にこう言われていた。「全部おまえのせいじゃねえか!」「姉ちゃんを返せよ!」
このとき初めて、帆高は今まで自分が誰かにしてきた庇護を誰かに求められた。センパイと呼んでいた相手もその実ただの子供であったことを知り、帆高は自分も子供であったと知り、そしていま大人としての役割を求められていると知ったのだ。帆高が憧れていた大人――夏美や須賀は助けを求めた自分を放っておいたりはしなかったからだ。
自分が頼っていた相手が実は年下であり、自分が責任を果たさねばならないと自覚してから警察署から逃げ出してでもキミを探そうとしたときから始まった帆高の前進は体を非常階段にまで導いた。

非常階段の類似点は指摘されているけど、言の葉の庭のラストにある非常階段でヒロインである先生に抱きしめられる主人公のカットのオマージュであるのは間違いない。あのときは上から降りてきてくれたヒロインに抱きしめられて「救われていた」と告白された。今度は「救われていた」ではなく「救いに行く」のだ。晴天というエンディングの向こう側に走る帆高。

そして彼岸で帆高は陽菜を見つけ出し、彼女の役割を開放して東京を水に沈める選択を執った。
ひとりのために世界を海に沈めるのは子供のワガママに見えるが、自分にはこれは拳銃という凶器でしか世間に影響を与えられなかった帆高の成長にリンクしている気がする。一発目は覚悟もなく、二発目は威嚇のために、そして決断という三発目こそ自分の意志で撃った。まあ精神的童貞を卒業したのである。

帆高の叫んだ「違う!」

ラスト、須賀から「世界なんて元から狂ってるんだよ」と言われることで、帆高は内心救われた思いになっていた。
立花氏にも江戸の歴史を語られ、帆高は選択の責任を免れようとしていた。君の選択は間違っていなかった、と。
天気の子は帆高に「それは違う」と言わせるためにあった。物語中の帆高なら、「そうかもしれない」と思ったかもしれない。けれどもう帆高はそんな同意はしない。自分の行動の責任と免罪を大人に求めたりはしない。三年間の保護観察処分をなにごともなく乗り越えた帆高は、もう生きていくという責任を負ってもらうという罪を抱くことはなく、自分の責任は自分が背負う決断ができる人間になったのだ。

実際に、須賀は子供と一緒に暮らすことは、少なくとも3年経ってもできていない。君の名は。で運命に打ち勝ったタキたちも水没した東京で暮らすことになり、帆高たちが祝福してきた人たちのような幸せを誰かに与えることもできなくなった。その責任を「犠牲がでることだし」の一言で否定できるほど、もう帆高は子供ではなかった。けど、だからといって世界のために陽菜を犠牲にすることもしなかった。それはワガママではなく選択だった。

だからラスト、帆高を濡らす雨の指定がおかしくなる。半身は透明な水で、もう半身は陽菜の体が透けていたときの色の水が流れる。
世界が君の小さな肩に乗っているのが僕にだけは見えていたから、その肩の重荷を半分受け取って、陽菜に対する大丈夫になれるように共に罪を背負って生きていく。たとえ誰もその罪を責めてくれなくても、水に浸けられて育てられるネギのように人々が力強く生きていても、選択の責任を負うのが帆高の思う大人だったからだ。

天気の子は大人というのは一種類だけではないし、自分の選択の責任を負いながら生きていくことで、なりたい大人になることもできる。覚悟があるなら「世界は最初から混沌としてるんだし」世間の求める選択ではなく自分のしたい選択をしましょう、その結果まー世間は慣れるし変化なんてしないから気にすんな、大丈夫だから。でも責任という拳銃の銃爪と同じものを他人に任せない人間になれ、と。

世界の前に自分を殺すな、辺りが自分の受け取ったテーマでしたとさ。

まとめ

「笑われないくらいの愛で変えられるくらいの世界ならばはじめから用などない」
風達の声のこの一節が本当に好きで、これをクリエイターが言うってことはもうパンツ脱いで欲望も曝け出せなければ何にも変えられないんだよなぁという感慨みたいなもので。たったひとりのために周りに嘲笑されても線路を走っていった帆高の行動を思い出してはちょっと泣いてしまうくらい涙腺が弱くなってしまった。

煌びやかなものとして書かれていた東京の汚い場所をたくさん見て、多分したこともなかったトイレ掃除や洗濯や料理をして汚いものと格好の悪いものも体験して、そんなみっともなさの果てに自分の運命を見つける物語に、ああこの物語は体裁だとか器用に生きようだとかそういう息苦しい世界の空気を殺そうとしたのだなぁ、などと思ったのでした。

これ本当にSFギミックとエロゲ文脈を使って若者の成長する日常ジュブナイルをやろうとしてるんだなぁ、っていう感じが凄い好きで。不幸というのが「主人公の選択で人が死んだ」になってないのが本当にいいんですよ。
だって死なねーもん。現実で俺が選んだ選択で人なんて。でもその選択によって他人が得るはずだった幸福は奪うかもしれないんだよなぁ。もう天気の子の東京では、晴れの日差しの下で結婚する人はでない(タキと宮守にも結婚指輪はないので、多分結婚することになっても実現できない)。今まで与えた幸福はなくならなくても、人の未来の幸福は奪ってしまった。笑顔のうれしさを感じる仕事をしてきたからこそ、「もう晴れ女やってないんです」と告げにいくときの帆高は処刑場に輸送でもされているような死にそうな顔になっていた。

小説版の帆高の心理描写が本当に好きなんですけど、「今まで当たり前のように出来ていたことが出来なくなった」「無意識に眠ることも、当たり前に食事することも、ただ歩くことさえも出来なくなった」という下りが「本当にそれ」なんですよ。
多分、いま世間から覚えている息苦しさって牛刀で首を切られるようなものじゃなくて真綿でノドを圧迫されているようなもので、決定的ではないけど確かにある抜け出したい焦燥感なんですよ。それは派手なものでないからこそ選択や排除ができない。

それをなくすために光の中=何らかのコミュニティなり繋がりを得たがる。でも廃ビルでの決戦で帆高は窓際にいて光の中には入らなかったし、大人組は光の中にちょいちょい足を踏み入れてた。大人としての連帯感とか責任とか、そういう価値観の共有で光の中にいたけど、最後は影の中で押し倒された帆高を「お前が帆高に触るな(=影に入っていくな)」とタックルして引き剥がす。自分も影の中(=明日花や家族を失った側の人間であることを受け入れ)に飛び込んでいく。

※廃ビルの光の演出についてはマジで「これこじつけでは……?」って思いながら書いてるので気にしないでほしい。

社会一般の規範を守れない影の側の人間である人種の持つ緩やかな絶望感に対する「僕たちは大丈夫だ」、君の名は。という大衆受けする映画の次に出してくるのが本当に偉いなって感じでした。俺はグランドエスケープのタイトルだけで泣く男だ。


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途中から書いててしっちゃかめっちゃかになってるのは見逃してほしい。俺でも何を書いてるのかわからん。そもそも評論としたくないんだけど世間で天気の子のレビューはこれさえ見ておけば充分!っていうのが本当にもう体調崩すほど面白くなくて(俺にとっての良い評論は熱意か自分にはない肯定を得るものなので)しかーーーーーたなく書いただけなので。

とりあえず以下、なんとなく頭の中に残ってた表現だけど特に文中に折り込まなかった内容。

新海誠の年上趣味でミスリードすることで陽菜の年齢を17歳と認識させるのすごいよね
・凪が制服のある学校にいってるのは親が入れたからなのと私服通学と違って服装に格差がでないからってことでいいのか
・自分を犠牲にしてまわりを助ける(私生活でも)昭和要素ともいえる面を陽菜が持つのと夏美さんが「超昭和!加齢臭がうつるから近づかないでくれます?」は選択の物語をモダナイズするって宣言でいいのか
・銃を拾ったことで生活が変わっていく話ってなんかで聞いた気がするんだけどなんでしたっけ。異形コレクション……?
・タキとMIYAMORIって別に君の名は。からの地続きじゃなくて前みたいにスターシステムなんですかね
スターシステムじゃなかったらあのふたりワンチャン別れてるオチとかないんですかね
・ぶっちゃけ空白期間が3年空いたとき「陽菜は別の男と付き合ってるんじゃ」とか思いませんでした? 秒速で不吉なときに飛ぶ鳥が映ったから俺はマジでびびったよ
・須賀さんって位置情報共有アプリいれてたから晴れ女の地点にいつも帆高がいることに気づいてたんだろうなぁ。ほんと保護者か?
・須賀さんが最後に会社ちゃんと起ち上げて身内以外の人を雇ってたのはそれも責任をとる、肩になにかを背負えるようにモラトリアムを終えたってことでいいのか。だってわざわざ地下に店構えて(マイナススタート)そこからマンション(プラス)に転じてるわけで。
・フェリーに須賀さんが乗っていたのは四葉が口噛酒で歴史を変えて情報をリークしていた説(ただの妄想)
・っていうかテレビ中継で陽菜を視認した人間が、陽菜が天に召し上げられるときに寝ていると共通の夢を見たとして、人間全員の意識がどっかで繋がってる(集合無意識的なアレ)ってことなのかな。陽菜が巫女になったのも後天的だし。
・どうしても総集編的っていうか君の名は。では減ってたやりたいシーンありき感があるけど逆にその「本来なら中心に置かれそうな道具(拳銃、編集プロダクション、晴れ女)」が混然としてカオスってるのもテーマにそっててこれはこれでアリ。