娯楽三昧

迷宮式娯楽三昧・全年齢版

【天気の子ネタバレ】現代が禁じた絶望への銃口

現代はインターネットのせいでお山の大将になれずに実力をつける前に心が折れる人がいる、なんて話をよく聞くようになったんだけども、そうやって増長ができなくなった世界で一緒に禁じられたものがなにかなー、と思ったら絶望だよねという話。

インターネット以前なら自分のコミュニティは狭かったので、なんらかの手段でトップクラスになれて成功体験を積めた。そのうえで大海にでて世界の凄さを知るんだけど、そのときには踏みとどまって戦えるだけの自力が付いている。
でも今では学生で天才に見えるバケモノなんてごまんといて、増長できずに成功体験を積めなくなっている。
同時に、インターネットは子供たちに「絶望禁止」も強要しているように思う。

昔は――少なくても自分がガラケーを使ってた頃は――不幸なんていうのは学校内だけのもので、そこそこ大変だった者もいるだろうが自殺者とかがでるわけでもなく。自分たちは親の文句だの、やれ教師や先輩への不満などを抱えて共感して、「ああ自分はなんて不幸なんだ」「でもまあ頑張るしかないか」などと慰撫できた。

でも今では毎朝、人でぎゅうぎゅう詰めになった電車に押し込まれ、息継ぎする魚のように顔を挙げると車内広告が目に飛び込んでくる。「私は15歳で出産しました」。中東の女の子がいかに悲惨な境遇か伝えるものである。

彼らが例外だ、と昔なら切り離せて自分の身近な不幸に埋没できて傷をペロペロなめられたわけだけど、今ではインターネットのお陰で傷をなめることすら許されない。
日本でさえも親が自殺しただのDVで愛を知らずに育ったせいで社会に適合できないだの、そんなの昼ドラとか鬼畜エロゲの中で充分だろって情報が飛び交っている。
それで彼らと自分たちは自由に交流ができるわけで、それはかつて黙殺されるだけだった被害者が平等に扱われる素晴らしいことではあるけれど、同時に些細な傷口を持つ人間に「その程度で不幸とか甘ったれるな」「この程度、ストレスのうちに入らない」「別に誰が死んだわけじゃあるまいし」「今にも死にそうなほど苦労しているマイノリティ側の人間なので大衆向け感動映画なんてポルノ」などなどと、些細な悩みを卑小化されていく。

自分は大学の頃は食糧経済学のゼミで論文を書かされたのだが、無難に題材にしやすい南アフリカの書籍を開けば
NPO法人の代表はこう言った。
「彼らの苦労や悩みに比べたら我々日本人が抱えてる悩みなど些細なものに思える」
彼らは立派な精神を持って行動力もあるのだとわかっていても、当時の自分は辟易してしまった。

別になにか不幸があったわけでもないのに大学に行くたびにまずはトイレで一回嘔吐してから教室に向かっていた自分にとっては、この苦しみがせせら笑われたように感じたのだ。
その後、在学中に実家の家計の炎上具合を知って就職への強迫観念にかられてパニック障害になり大学の卒業式はいけなくなるし、そのせいで学校を卒業した実感がなく27歳になっても大学に通う夢を見てしまうのだが、この苦しみさえも精神科で山ほど薬を貰わなくては生きていけないようなより重傷な人間と比較されたら「その程度」だ。

で、なんで天気の子の考察や感想でこんな自分語りを聞かせられてるんだよと思うだろうけど、天気の子ってこういう過激に傾きがちなインターネッツによって淘汰されつつある些細な悩みや苦しみを肯定する話だよねと言いたいわけです。

天気の子の非難のひとつに「主人公の決断によって人が死んでいない」「主人公の背負う罪が弱い」というものがあって、そのせいで主人公が犠牲にした世界の重みがなくなり、結果なあなあですんでしまっているのではないか、という。

だって外国ではアベンジャーズは宇宙規模の戦いをするし、戦争映画じゃ国家規模だし、戦う以上は犠牲や失うものは大きければ大きいほどスペクタクルになる。つまらないなあという作品は、だいたい代価が軽いしどうでもよく見える。物語の、シナリオライターとしての基礎を学ばされればスケールの大きさにだって注意をされる。

でも、天気の子はセカイ系と言われるけど本質はジュブナイルで、日常物で、村上春樹(ごめんチャンドラーの翻訳でしか知らない)や山田詠美(俺が好きなだけ)に秋山瑞人のような自意識についての文学であって。それを「君の名は。」で会得した娯楽へと昇華させるパッケージングで提供したにすぎないのだ、と思う。
つまりジュブナイルであるのなら、犠牲にする世界は「命」ではなく「感情」と「心」であれば充分なんじゃなかろうか。
なので、天気の子のジャンルを根本的に見間違えないようにすれば、帆高の決断により人が死なない、というのは納得できるし、そもそも、この話の内容からして、人が死ぬような取り返しのつかない出来事は起こってはいけないのだ。

人が死ぬと選択に重みがでる。これがキモで、重みが出てしまったら台無しなのだ。
もし自分のせいで大勢の人間が死んでしまったらサバイバーズギルトのように使命感が生まれてしまう。責任をとらなくてはいけないと思ってしまう。子供が子供のままに大人の価値観を背負い込むことになってしまう。これは強力な動機であり、雑な言い方をするならマヨネーズだ。大人化というマヨネーズを子供にかけただけで、子供という素材が変質するわけでもない。万能の動機付けである。
そうしたら帆高は罪を背負って陽菜と一緒に生きていこう、と言う。これ一択になる。
あの物語で最もエモーショナルな「違う! 僕たちは確かに世界を変えてしまったんだ!」という一言はでてこなくなる。

この台詞がなんで優れているのか。それはまわりが帆高の罪を許そうとしていて、物語中でも水に漬けられても賢明に芽を出すネギが登場することで人間は順応して生きていけると示唆したからだ。東京は水没したが別に滅んだわけではなく、ヴェネツィアのようにそれを観光商材にだってするだろう。3年の間で通勤がクルーザーになっているのだから、その順応力の高さはしめされている。
なので、帆高は「世界」と「キミ」で比較して「キミ」をとったのに、決断をしたのに、結果的にそれは誰も死なない選択肢だったのだ。

でもそれは結果論に過ぎない。あのとき帆高は自分の意志で銃爪を大勢の人間に向けたのだ。
端から見たら「ガキが世界を変えられるとか思いあがってんじゃねー」と言われることで、帆高の悩みは俺のように些細な悩みと不幸で迷っているのと同じなのだ。

そのうえで帆高は「違う」と言った。たとえ自分の選択が誰も傷つけない正解だったとしても、あのとき罪を背負うと決断した気持ちは本物で、あのとき自分は確かに人を殺したのだ。他人がどう言おうと知ったことではなく、この悩みも罪も自分と陽菜しか抱えないものであっても、ふたりで背負わなければいけない罪で、空飛ぶ翼を捨ててでも選んだ掴んだ絆だったのだ。
帆高の「なんとなくの」「些細と笑われそうな焦燥感からの逃避」から始まった物語は、その悩みを肯定し、世界の悩みや負債といった大きなものを撥ね除けるところに着地した。数多の映画や本で語られた有り触れた悩みであっても、本人にとってその苦しみは本物で、他人の苦しみがどれだけ大きくても、自分自身が押しつぶされそうになってるのは本当なのだ。
どこかの誰かがどれだけ不幸でも、キミのその心の焦燥感は間違いものだから、ひとつそんな社会から大いなる逃避行にでてみましょうか。そんな風に心がスッキリする、世界の絶望禁止者と過激主義に押しつぶされそうな日陰者への救いとなる映画に思えて、深く暗い空の中に落ちていく陽菜に手を伸ばす帆高の姿に、俺は確かに「行け」と思ったよ。