娯楽三昧

迷宮式娯楽三昧・全年齢版

少年漫画のパロディとしての『鬼滅の刃』

鬼滅の刃の大ヒットぶりには日々驚かされるというか最早当たり前すぎて普通に受け入れてしまっている最近なのだけど、それでもこの大衆受けしなさそうと思ってしまった漫画がここまでヒットしているのかぁ、という驚きは常にある。

炭次郎のような少年漫画としては異例に近い出自の主人公などもそうなのだけど、そういうことではなくて。
鬼滅の刃は、そもそも設定が少年漫画という文脈のもとに展開された読者に予備知識を要求する漫画だなと最近気づいたのだ。

そういった作風がコア層じゃなくてマスにまで受けていることにビックリしつつ、話の構成を自覚的に受け取っていなくても、この話を読んだ時点でこれまでの少年漫画の展開が今後も続けられたら違和感を覚えるのかもしれない。創作の価値観のアップデートとはそういうもので、言語化できない違和感として歯車を回し、そして鬼滅の刃は価値観やトレンドを推し進める漫画なのだ。

そして鬼滅の刃が価値観を進めるためにとった、予備知識を求める調理の仕方は少年漫画のパロディだ。

※ここから先は最終話までのネタバレがあります。




鬼滅の刃のパワーアップは『痣』と呼ばれている。

痣が浮かぶことでパワーアップし鬼に対しても致命的なダメージを与えることができる、まさに少年漫画につき物のやつである。ダイ大の紋章を彷彿とさせるし、トリガーが怒りなのはドラゴンボールでもあるし、刀の色まで変わるのでBLEACHなどなど数々の少年漫画の要素をてんこ盛りであり。
鬼滅の刃は作風こそ独特だが、こういったパワーアップ要素が出てくるのは少年漫画だなぁ、と思っていたがそうではない。

この主人公や主役格のキャラの象徴である要素こそが、鬼滅の刃の少年漫画のパワーアップ記号のパロディであり、鬼滅の刃で語られているテーマを書くうえで利用されたコンテキストなのだ。


パワーアップ要素の塊である痣だが、こんな要素も続く
・怒りでパワーアップしてるのではなく刀を握る握力が影響している
・発現すると25歳で死ぬ
・デメリットを一切受けない人間がひとりいる


まず発動条件が怒りではない、偶然満たしているに過ぎない、という外し方が妙だと思う。最初にこの設定を見たとき「なんでそこで捻るの?」「握力でパワーアップってどうでもよくない?」と思ってしまったし単体として見たら今もそう思うのだが、痣自体が少年漫画のパワーアップ記号に見せかけたナニカだとしたら、この外し方は意味を持つ。

この発動条件のせいで、まず「これは普通の少年漫画のパワーアップではない」し、寿命の縛りも(デメリットがあること自体は珍しくないが)絶妙である。子供からしたら「すぐ死ぬんじゃないの?」と拍子抜けするが、大人からしてみれば「そんなに早死にするの!?」と受け取り方が変わるし。それはともかく。


さらにこのデメリットをもたない人物が継国縁壱で、デメリットのないパワーアップ記号を持つ縁壱こそが「鬼滅の刃の主人公」という機能を与えられた人物なのだ。主人公という概念の擬人化である。常々「私は人より強く作られてきた」というのは、旧来以前とした少年漫画の主人公の概念の象徴といえる。
炭次郎たち隊士たちはみな縁壱と同じ痣を使えるが、これらはすべて寿命を前借りすることでなんとか力を引き出している状態で、つまり力を使う器にないのだ。


そう考えると、炭次郎の出自がただの炭売りの家ということにも理由が出てくる。炭次郎は本当に主人公にならないはずだったイレギュラーな人物で、ただ素朴な人生を送るはずだった良い子で終わるはずだったんだけど、そういった主人公にならざる人たちが繋がりあうことで、最強の個人である縁壱=主人公にも出来なかったことを成し遂げる、といった構造なんだろう。


こういった少年漫画のお約束をメタ的に使うことでモダンな構造にして綺麗に完結した漫画、なかなかないんじゃなかろうか。それもジャンプで人気絶頂のときにこれをやりきるって言うのは本当にすさまじい。

他にも想いを繋ぐことだとか、それは血じゃないとか(黄金の精神!)、少年漫画としては珍しくない要素を集めた作品なのに、それらの要素にコミュニケーションとディスコミュニケーション、嫉妬や負い目など現代的なカヴァーを与えてるのも普遍性と近代性をあわせもってて「ああーこれは一度有名になれば大勢に刺さるわー」という感じ。

そしてこの鬼滅の刃が大勢の手に届いた、といったことが炭次郎たちの第二の勝利なのである。

こんな記事を筆頭に「わかってないやついるけど、俺はわかってる」「読解力のない人は言わないとわかんない」と思いがちな人は大勢いる。
ここまでではないにしろ、大衆の解釈に対して不満を持っちゃう人は大勢いる。
「あいつら全然読めてないなぁ」とか、自分を理解できている側において見下しがちである。

それが事実かどうかはどうでもよくて、それらは鬼滅で区分するなら鬼側のような自意識の高い個人である。
そして大衆とは、平凡でも繋がりあって広がることを選んだ人間たちである。

たとえ個人個人の読解力が劣っていても、それらが繋がり集合知となり共有の解釈となることで、群体は個人では導けない勝利にたどり着く。鬼滅の刃での勝利とはアニメを筆頭にする大ヒット、それにより生まれた数多の派生作品、低迷する経済の中で生み出された人の笑顔、鬼滅単体では産み出されなかった数々の実績。そういった幸福に、「解釈がわかってない」「ヒットのせいで文章を読めない人が入ってくるのが増えた」などといった村社会的な個人の論理は、それこそ鬼を倒そうとする意志に退けられた鬼たちの重い感情のように、通用しない。

今こそ現実は鬼滅の刃のパロディになった。
鬼滅の刃がありふれたどこにでもいる人々の手元にまで届いたこと、それ自体が鬼滅の刃第二の勝利なのだ。