バットマンが死んだ日
あ、バットマン死んだわ。
というのが第一感想だった。
見てきた
というわけで、10月4日に公開された「ジョーカー」、早速グランドシネマサンシャイン池袋GTレーザー IMAXで鑑賞してきたんですよ。
土曜日だったからか満席。最初は台風がくると予測されていたからなのか予約したときは運良く中央席に座れたわけで、
つまり真ん中でジョーカーの洗礼を受けてしまったというわけ。
ジョーカーを見た後に感じたのは、「ああ、たしかにこれは他のバットマンやDC映画に繋がらないわ」という納得だった。この映画はジョーカーと、ジョーカーというバットマンのオリジンであって、ブルース・ウェインのバットマンのオリジンには繋がらない。だって、ブルースには守るべき市民が既にないのだ。
この映画の筋書きを一言で言い表せば、まさにこれだろう。
「なんか…笑えるよな…。いつか聞いたジョークみてぇだ…」
バットマン:キリングジョーク
蝙蝠の格好をした全身タイツ男が街を飛び回って玩具を投げまくり警察の真似事をするジョークを今や当然のように受け入れている状態でジョーカーを見れば、これがジョーカーによる現代におけるバットマンの再話なのだろうということが一目でわかる。
ジョーカーとバットマンはコインの裏表である、というのが定番の語り文句であったが、それまで裏だったジョーカーがコインの表をも食い尽くしてしまったのが本作だ。コインの裏も表もジョーカーなのだ。バットマンは生まれる前に殺されてしまった。
何故そうなったかと言えば……
まずバットマンの設定を振り返ってみる。
バットマンは法では裁けない悪や腐敗した権力に代わって悪を取り締まる、謂わば市民の正義の代弁者だったわけだけども、彼は正義のために法という正義を破る矛盾と戦う苦しみながら歩むヒーロー、ダークナイトだった。
ダークヒーロー、クライムファイターといえば自分の正義のために他人の正義を無視するアナーキーさが評価される反面、自分には日本でよくみるそういったアンチヒーロー形式を「社会におんぶ抱っこされながらイキがる子供」にしか見えなかったわけだけども、バットマンの場合は法を破っているだけに自分を自分というルールで縛って苦しみながら戦う、そういった聖人のようなスタイルが魅力的に映ったわけだ。
市民のために戦い、犯罪者のレッテルを被って、罪なき人々を守ってくれる黒衣のヒーロー。そりゃあもうかっこよくないわけがない。しかも表向きは華やかな金持ちで華麗なるギャツビーにそっくりなセレブぶりである。
だが、そんなバットマンのオリジンを乗っ取って、「現代のバットマン」になったのがジョーカーだ。
だって、我々は知ってしまっている。
いくら「金持ち」や恵まれた人が市民のためを謳って市長を目指そうが、世界がどうしようもなく変わらないなんてとっくに嫌というほど教えられている。
本作のジョーカーは神経の疾患持ちでそれを不気味がられている。それが仕事にも悪影響を及ぼす様に、自分のパニック障害などの精神障害を重ね合わせて憂鬱になってしまう。社会で普通に生きるのは辛く、喰うに困り、家に帰れば親の世話をするために離れられず、親とふたり暮らしと明かせば笑われる(どうしようもないのに!)。
それでも夢に向かって行動を起こしても、既に成功した「金持ち」には嘲笑の道具にされ、しまいには見世物として呼び出される始末。
現実でも、社会的成功者が、やれ「社会や成功者はそれでも雇われである限り賃金が上がらないのは当然」だとか、「自分の人生を無駄にするな」だとか、「人のために行動すれば商売は成功する」などと小綺麗に宣うけれど、実際のところ起死回生と思われた光明は総て偽りでる。
金持ちにはジョーカーのような、我々のような一般市民に顔はない。ただピエロのお面を被ったその他大勢で、それらに罵倒されても顔を隠した卑怯者がわめいてるだけにしか思われない。どんな苦しみを得ているのか、顔を見ようとしないのは当人たちなのに!
そうした世界の結果、失うものさえなくなったジョーカーは「無敵の人」である「ジョーカー」の仮面を被り、民衆の感情を救う英雄として立ち上がる。それはさながら、いつかゴッサムを救おうとするであろう黒衣のヒーローのように。
そうして救うべき人々を簒奪され、人々のために戦うという物語を剥奪されたバットマンは、現実の社会におけるヒーローとしての死を突きつけられたように思えた。
とはいえ……
正直のところ、初見のときにそれほどインパクトはなかった。
「まあ、こうなるよね」
これが隠しようのない感想で、納得で、想像の範疇だった。
なにかイメージもつかない邪悪なことをしてくれるのかと思っていたが、実際妥当of妥当の連続で「映像と音楽はすごいけど、筋書きとしてはそんなにか?」という感じだ。
「そりゃあ、こんな状況になったらこうするでしょ」「仕方ないよね」「自分だってこうする」
もっと愉快なギミック殺人SHOWを仕掛けて民衆を惑わせてくれよ、と思った。もっと金持ちのすかした面を苦痛に歪ませてくれよ、と思った。それこそダークナイトで恋人と社会正義の人を天秤にかけさせたように、鉛玉よりも後悔を心に与えてほしいと思った。
なにか自分のまわりにある日常に拳銃という凶器を紛れさせただけの映画に思えた。
ただそれって翻せば、このゴッサムの悲劇もジョーカーの末路も、なにもかもが現実との地続きだということだ。
自分は退屈さを覚えたが、これを退屈だと思える社会情勢を思い起こすと、薄ら寒いものを覚えた。
「ジョーカー」は「天気の子」と同じだ。
劇的な悲劇がなくとも人生は厳しく、持つ者たちからの視線は厳しく、ただ従順に当たり前に飼い殺しにあうしかなく、けれど違うのは現実には陽菜も須賀も夏美もセンパイもいない。人は帆高にはなれない。帆高は仮面を用いない真実その人だけのパーソナリティである。
けれど、偉大な作家は言った。「誰でもマスクを被ればヒーローになれる」。
作中でトーマス・ウェインは言った。マスクを被るのは卑怯者で、空虚で、他人に嫉妬する哀れなピエロだと。
だからこの映画は改めてこう告げたのだ。人はマスクを被れば、ジョーカーというヒーローになれてしまう、と。
ジョーカーこそが、現代におけるバットマンなのだ。
苦しく、立派に生きようとしても、苦しみしかない人生で、ギロチンへの道を綺麗に並ばせようとしてくる厳しい教師などいらない。
世界に殺されそうなら、笑い飛ばしてバカみたいに生きようぜ。そうやって、自分を縛って苦しむものたちの心を救済しようとするジョーカーこそが、現代においては間違いなくヒーローなのだ。つまり現代で必要とされてるのは天使よりサキュバスなんだよ!!!
自分がジョーカーの仮面を被る日は明日かもしれない。
その恐怖に怯えながら生活して、苦しみ、その度にテレビやネットやメルマガで、確かな成功者が見当違いなことを言っているのを見て、彼らに振り回され利用されていると実感するのだろう。
そんな社会生活にぴったりの言葉といえばやっぱりこれだよなぁ。
「俺の人生は悲劇だ……いや、喜劇だ」
ジョーカー
バットマン:キリングジョーク 完全版 (ShoPro books)
- 作者:アラン・ムーア(作),ブライアン・ボランド(画)
- 発売日: 2010/01/21
- メディア: 大型本
- 発売日: 2016/02/24
- メディア: Blu-ray