【THE LAST OF US PART Ⅱ】ゲームで物語る事の意義を突きつける傑作
The Last of Us Part2をクリアした。エンドロールを眺めているときの気分は諦観や切なさを想起させられて、いっそ穏やかと言っても良い気分だったが、その心境でラストを迎えられたのも、このゲームによって30時間の間胸ぐらを掴み続けられた経験があったからだ。
この旅を見届けろ。ぴったりのフレーズだった。
最後まで見届けずにレビューや評論などできようわけがない。酷評する言葉はいくらでも思い付く。
陳腐、何度も見てきた、見知った類型の物語。
ラスアスは1の頃からそうで、物語の内容自体にエポックメイキングな何かがあるわけではない。きっとプレイ動画を見た人間には「ふーん良い話じゃん」「面白いね」くらいの気分で受け取ったものもいるだろう。
黙れって感じだ。
ラスアスの凄まじいところは、プレイヤーをゲーム体験を通して作中世界にのめり込ませる技巧だ。映画的な作品ではなく、映画の中に引き摺り込む。インタラクティブメディアであるゲームでしか体感させることのできない感動を教えてくる、まさにゲームシナリオの意義はここにあるのだと言わんばかりの内容。
それがラスアスの魅力である。
ラスアス2も、ハッキリいって要素だけ見れば安易に映るだろう。
復讐者だの、
敵にも家族がいるだの、
すべての人間に物語があるだの……
お説教くさく、そんなのは凡百の作品で語られ尽くした。SNSでは「○○は復讐を望んでいない!」という発言にたいして復讐を正当化する大喜利が飛び交う。
復讐は正当で、相手に家族がいるのも知っていて、でもこの欲望と感情という真実を貫くことこそモダンだ。
本当に?
本当に理解しているのか?
知識として知っていただけなんじゃないか?
ただの頭の中のお遊びでしかなかったんじゃないか?
このゲームを始めたとき、俺は確かに「復讐してやる」と思った。被害者面した連中をぶっ殺すのが楽しい……とは言わないまでも、「これはそういう物語を楽しむゲームなのだから、その趣旨に乗ってやろう」と思った。
だけど、ゲームも終盤にさしかかったとき、心の底から「やめてくれ」と言ってしまった。
手が震えていて、心臓が痛み、左手は痺れていた。もしかしたら抜け道があるんじゃないかとボタン操作を裏切ってみたり、マップを探し回ってみたり、隠しルートがないか必死に探していた。
なのに、画面には無情にもQTEのアイコンが表示される。
前作のジョエルは、この表示はなかった。殺すか見逃すか。あのシーンではユーザーの指先に委託されていた。
けれどこのゲームでは違う。
「やれ」
システムメッセージに過ぎない表示内容は、ひとつの銃口となって画面の前にいるこちら側に向いていた。
これが復讐なんだ。
腹を決めろ!!!
……で、終わってしまうのが普通だ。
けれどこのゲームは、とにかく甘えを許さない。シナリオを体験するにつれ、復讐の覚悟なんてものは似非リアリズムの思考停止で、ただ喚いて問題から逃げてるのではないかと疑念すらよぎってしまった。
ラスアス2はプレイヤーと主人公との感情の一致。これを成し遂げるために、プレイヤーから嫌われるだろう選択肢を、人気シリーズの続編で選択した。
その旅の結果を、どうか見届けてほしい。*1
【PS4】The Last of Us Part II 【CEROレーティング「Z」】
- 発売日: 2020/06/19
- メディア: Video Game
【PS4】The Last of Us Remastered PlayStation Hits 【CEROレーティング「Z」】
- 発売日: 2018/07/26
- メディア: Video Game