娯楽三昧

迷宮式娯楽三昧・全年齢版

【ウマ娘3期】及川版ウマ娘は「感情的」な物語である

及川版のTVアニメシリーズ ウマ娘は、基本的に「感情」によって物語が進行するエモドラマである。


これはキャラクターのエモーショナルな面にのみフォーカスを当て物語を単純化することにより、キャラクターの変化や成長といった面を際立たせることができる利点がある。


物語とはつまり、キャラクターにもたらされる変化をドラマチックに書いたものとも言えるから、省略化はひとつの面においてただしい。こういったものがエモジャンルと呼べるのかもしれない。


ただし、エモを押し出した作品が成功しやすいものそうでないものがある。

私見だが、エモを押し出す場合、それはアーティスティックな作品ほど違和感なく成立する。


例えば音楽を題材にした作品や、ミュージカル、アイドルなどだろう。
これらは、人物の心情的変化=内面の成長が、直接彼らの行動に影響を与えやすいからである。演劇ならば、より役を深く理解する成長を遂げた結果、それが演技に反映されて作劇上の困難をクリアする……といったものである。


もちろん、冷静になると現実はそんなに単純ではない。


「気持ちの問題で技術があがるなら世話ないよ」


そう、ウマ娘の問題点もこれである。
及川版ウマ娘は、「気持ちの問題」で「レースというフィジカルの戦い」を乗り越えることができるのである。









エモドラマに関して、芸術分野といった相性がよさそうな分野でさえ「まあそんな単純じゃないけどね(好転するのは納得したけど)」と思わされるのだから、その技法をそのまま持ってきたウマ娘にも当然歪みがでる。


ウマ娘三期におけるレース描写はこうだ。


最終直線で主役たちは歯を食いしばり、感情的になにかを叫び、うなり、全力で走る。その結果、彼女たちは他のウマ娘たちより先んじて進んでいく。


何故勝てたのか?
どうして周りのウマ娘は負けたのか?
そういったレースにおける決め手や戦術面の話は描かれない。
なにか力強く走ったら勝った、程度のもので、レースがただの早さ比べ以上のものになっておらず、勝利と技術の因果関係はボカされる。だから、アニメの視聴者に「なんでこのキャラはレースに勝ったの?」と尋ねれば、要領を得ない返事しか帰ってこないし、事実と違う答えが返ってくるだろう。ほとんど描写がされていないから当然である。


及川版ウマ娘におけるレースとは乗り越えるべき戦いではない。
もちろん作中のウマ娘たちは、レースの大舞台を目指して特訓し、満を持して迎えようとしている……のだが、作劇レベルでいえば、レースパートは不要な設計になっているのである。


何故なら、及川版ウマ娘にとってのレースは、物語のクライマックスを明示するための演出装置にすぎないからだ。
普通なら「バトルに勝つ」、といった目的のために修行シーンを描く
本作では、修行シーンにおけるキャラクターの内面の物語を描くために、結果的としてレースという目的がマクガフィンとして存在しているだけなのである。


だからウマ娘のレースにおいて、苦労したり悩んだりした子が決死の表情で走って感情を表出させ、報酬としてゴールという報酬を手に入れる。


ゆえに、及川版ウマ娘はレースに駆け引きをおこなわないし、勝ち負けに物理的な因果関係を持ち込まない。
レースは「目的」ではなく、そのレースに至るまでのキャラクターにご褒美をあげるための「結果」だからだし、形式的な物語のクライマックスを視覚化するだけのものだから。



既存の作品に喩えるなら、ハリウッド映画でクライマックスに近づけば、キャラクターは物理的に高い位置に移動する。ボスが高層階にいるなどの理由で、物理的に位置をあげる縦軸の動きをつけることで、佳境を演出する
及川版ウマ娘において、それはレース内でゴールに近づくという形で描かれる。ハリウッド映画において、高い位置にのぼるのが演出的な意味であってストーリー的な意味がないように、及川版ウマ娘のレースもまた、演出であってその内容自体に意味はないのだ。


レースは舞台装置といった面は、敗北したとしても機能する。
ゴールドシップが引退レースである有馬記念において積み上げたドラマを感情的に披露したが、それでも衰えには勝てず、ついに勝つことはできなかった。…と。とても単純化されている。
このレースは感情的なドラマの報酬を与える役割は得なかったが、結局「感情的を表出させて走った方が勝つ」といった正の演出を念頭においたうえでの捻りにすぎない。感情といった重力を中心においた活用形でしかない


このため、及川ウマ娘はレースを感情を書くためにしか利用しないので、感情の介在しないレースは書かない


たとえば、一期における菊花賞での敗北は、セイウンスカイが笑顔でゴールを切るギャグ描写で終わらせられた(はず)。
これは、スペシャルウィークが、セイウンスカイや動機に特別な感情を(アニメ内においては)もっていないので、その状態で走ったとしてもなんの感情も書けないからだろう。
ウマ娘一期において、スペシャルウィークは憧れの人物であるスズカの継承者であり、日本総大将として外国勢を迎え撃つ〝主人公〟である。日本を背負う継承者になっていく物語において、実はスペシャルウィークはダービー一冠であり、二冠馬であるセイウンスカイの方が記録の面でいえば上…といった事実は、スペシャルウィークを主人公にした物語では余計だからだ。
なので、負けたとしても「負けちゃった〜」でなんのライバル視も生まれないように処理するし、突っ込まれないように描写は薄くして終わらせる。。
このように重要なレースや史実があったとしても、カットするか、とはいえ記録ではそうでもこのキャラ同士に感情のやりとりはないので…と深掘りはされない。


そういった演出方針が露骨に現れてしまったのが、ウマ娘三期第五話である。
キタサンブラックは、5話においてリバーライトに追い越されたときにこう言う。
「誰!?」


キタサンブラックは、今後の作劇においても、リバーライトになんの感情も抱かない。
だから、セイウンスカイに負けて引き摺らないスペシャルウィークと同じように、ギャグでお茶を濁すしかない。掘り下げてもウマ娘三期のストーリーライン上では横道だからでもある。なので、半笑いでツッコミをいれさせることでリバーライトとの間に発生するであろう人間関係の可能性を剪定する
それが及川版ウマ娘を貫く一環したルールであるし、だからこそ名有りのキャラ同士による「キミとボク」の閉じた世界にしかならない


キタサンブラックはリバーライトに負けて、ドゥラメンテと同じ周囲が眼中にないといった対応をとっていたことをしっぺ返しを通じて知ったにもかかわらず、それは因果応報程度の軽い関連付けにしかならず、彼女は「他にもすごいウマ娘はいくらでもいるな〜」と自らを戒める展開にはならない。なので、またドゥラメンテだけを見て会話を交わす。


その背後で喜び続けるリバーライトが映されつづけるのは滑稽で、リバーライトに対する死体蹴りで、泣けてくる。


彼女にも物語がありだからこそ大喜びしている…といった、オールハイユウの発展形の描写だったのかもしれないが、実際はリバーライトの勝利によって主要人物たちはなんら感情を揺さぶられないため、ドラマの上では無視される道化さを強調されただけの結果である


ウマ娘三期における感情的ドラマを書くレースにおいて、リバーライトが勝ったのは「事故」であり、だからこそキタサンブラックたちは気を取り直してお互いの健闘をたたえ合うのだ。


きっと及川監督はこう思っていたのではないか、と思ってしまう。


ドゥラメンテキタサンブラックが1、2着を争ってくれていた方が話は綺麗にまとまったのにな〜」
「リバーライト、余計なことしてくれたな〜」と。


ウマ娘一期からそうだったが、及川監督のウマ娘に特に出る顕著な作劇として、
史実を元にした戦績による話造りより創作としての類型的な物語を優先し、その結果やりたい物語と相反する史実をカットするというものである。
あるいは、前述したようにギャグで誤魔化すかだ。


そして、カットや描写しないことを選択した結果として物語上にでてくる、ストーリーを構成するうえでのイベントの過不足はオリジナル要素で埋めるのである。


「この展開にしたいけど、それを補完するモチーフが現実にもないんだよね」といったときに、オリジナルを根拠にオリジナル展開を発生させて無からエピソードや因縁を作るのである。


キタサンブラックトウカイテイオーに憧れ、それを通じてナイスネイチャと繋がりを持つ……といった感じに。


そのため、及川版ウマ娘はどんどん史実のキャラクター性からかけ離れ、ふと「これ三次創作じゃないっすか…?」と正気に戻されるのである。


おそらく、こういった手癖の演出が目立つようになったのは、同世代のウマの許諾がおりてないor実装していないからだろう。


1期や2期は充分にウマが揃っていたが、まだ若い世代であるキタサンブラック世代は、実装されているウマが少ない。そのため、及川監督版のメインテーマである「感情のドラマ」に絡めることができるウマがいないのである。


そのため、ウマ娘のアニメシリーズにおいて、適度な使用に抑えられていた「ギャグによる誤魔化し」といった面がレース中といった最悪のタイミングで表層化するし、実名ライバルと上位争いをしてないから天皇賞春はカットするし、キタサンブラックサトノダイヤモンドもモブウマ娘に囲まれた中で唸り声をあげて地面を蹴るいつもの演出(というかこれしかない)を発動するだけで予定調和の勝利を得るのだ。トレーニングで走り込み程度しかしてないのに。野球アニメで素振りしかしてないのに気持ちだけで甲子園優勝しちゃってるスラッガーを見るくらい虚無の気持ちだ。



これは仕方ないといえるだろうか?尺やウマの数の問題といった制約の中で頑張ったと言えるだろうか?
自分はただ、得意な演出(手癖といってもいい)と現実がぶつかり合ったとき、手癖の方を優先して採用した結果の歪な構成だなとしか思わなかった。惰性のアニメである。


そもそも、ウマ娘RTTTやシンデレラグレイにおいて、非許諾のウマが物語に絡むことはいくらでもある。ラスカルスズカが最終決戦で競ってきたときに、茶化すウマ娘はいただろうか? ディクタストライカとの戦いをレース中に蔑ろにするオグリキャップはいただろうか?


これは前にもブログで書いたのだが、及川監督版ウマ娘は昔なら裾野を広くとって多くの視聴者を動員する入り口としての役割を果たしていたが、今では「アイドル要素もアスリート要素もギャグ要素も、それに特化したメディアミックスがある以上、すべてが中途半端な作品」にしかなっていない。古い設計のアニメなんである。


とはいえ、古馬戦線になってからはシュヴァルグランだって絡んでくるし、なんといっても天皇賞秋のサトノクラウンとの対決はキタサンブラック史において何度もこすられて然るべき名レース。


及川監督の手癖の出番が少なくなる状況が整えば、きっと問題なくなるはずである。だってwikipedia読んでるだけですら面白いしダメにしようがないよなぁ……?
と思ったけど今から最後の有馬が怖い。クイーンズリングはどんな扱いを受けちゃうのー!?



……と、まあ。とりあえず6話は単品として見たらまだまともだったので、5話が底値ということで、きっと今後は無難にまあ普通のアニメだねに落ちつくことでしょう。
ところで6話のメジロマックイーンの上手く言おうとしてメチャクチャ喩えが下手な人みたいな挙動なんだったんだろう……。これもシュールギャグのつもりなんですかね……?


あ、でも及川監督、ここまで書くとメチャクチャ悪くいってる感じだけど2期まではそれでも面白かったしお陰でアプリ→競馬と移行できたので感謝しているし、ギャグに特化したらまだまだやれると思うのでヒナまつりの二期をよろしくお願いしたいですね。
私からは以上です。