娯楽三昧

迷宮式娯楽三昧・全年齢版

批判の依存性について

批判。批評ではなく批判。

インターネットを見ていると批判というのには猛烈な中毒症状があって、人はそれに依存していく負のスパイラルがあるよなー。という話。

なぜ批評と分けたかといえば、


だって書くのが大変だから!!!


批評、評論をやったことがある人ならだいたい書くことの大変さはわかるのだろうと思う。
そもそもこの世に簡単な論文制作がないのと同じで、事実関係を確認し、主体と客体を分けて論じるのは非常に精神力も労力も使う。

書くことに労力が必要なら参入障壁が高すぎる。
依存とは逃避先であって、必然的に簡単なものであることが多かろう。登山に快楽を見いだすようなもので、そういった達成感を得られる人はまた別口の人と感じる。


もし「いや、批評は簡単だよ」と答えた人がいるなら、それは「批評」じゃなくて批評と思い込んでるだけの「批判」、「中傷」じゃない?


だからこそ、ちまたにはフィクションを論じる人はあふれているが、彼らは批評家ではなく批判家で、単に感情のはけ口を外に求めただけの存在なんじゃなかろうか。



なぜこんな話をするかといえば、「チ。」について気合いのはいった批評を見たからである。
「チ。」に関しての学問の扱いに関して否定的な趣旨の記事だったが、特にその記事を指弾するための話とかではないし、逆に記事の内容の趣旨にも賛同もしない。


内容としては、熱量があった記事なのでまとめてしまうのが心苦しいが、意訳をすれば「科学の話をしているのに、科学文化の勃興の歴史を属人化させて主張の従にしているのが不愉快」といった感じの話である。


自分としては、「恋愛をテーマにしてる恋愛漫画の恋愛はファンタジー」だし「SFだけど宇宙でビームの音はする」し、別に主題として扱っている題材が現実とは違う扱いをされていても気にしないし、瑕疵とも思わない。それはあくまで「フィクション物語」といった「デフォルメされた絵画」あるいは物語といった形に成形するために枝葉を整えられた木々のようなもので、脚色されたからといって、「まあフィクションは成り立ちからしてそうだし」のスタンスである。

これの方針を突き詰めると「現実だと現実と比べられてめんどくせえから危機回避のために植民地的に使える異世界を乱用すっか!」しか待ってないし、もっと砕けた言い方をするなら、創作とは自分の着目した部分の良さ(感情)を最大化させて伝えるための表現手段なので、取捨選択は必須事項でありそこの芸術点を競ってるイメージ。


ただ、切り捨てられた枝葉の部分こそが好きな人もいる。焼き魚の内臓が好きなのに「苦いので捨てておきました!」と出されたらイラッとするだろう。自分だってこうはいっているが、「性差別への問題提起をする現実を舞台にした漫画なのにセクハラが許容されたリアリティレベル」で意味もなく物語が展開されたら「えっ!? なになに!?」となるだろう。


でもそれは「自分は対象にされてなかった」といったマーケティングレベルの話なので、そこに文句をつけるのは「激辛ラーメン店にラーメンが辛いと文句をつける」ようなものじゃなかろうか。そこはもう個人差なので、作品の出来不出来と無関係に、「でも俺は嫌いだ」の流れは当然成立する。作品の完成度は好き嫌いを超越することを意味しない。


で、該当の記事は「作品は傑作だが、あくまで自分はこのスタンスで、この部分を重視しているので、不愉快だった」と個人の話なので問題ではない。登場人物がゲリラライブを始めたので警備をしている人間としてはコイツらはダメ、みたいなしょーもない話ではない。



こんな文章を書いたのは、翻って「批評は労力がかかるので、こういった本気の熱量をたたきつけてくるので論説に同意できなくても参考や知見を与えてくれるが、批判はそうではないな」と改めて実感させられたからで、相対的に「いやあ世の中のただ口が悪いだけの批判、マジでただ思想もなく点で見た揚げ足取りを汚い言葉でしてるだけだな……」となったからなのだなぁ。



もちろん批判は中傷ではないので悪ではないし、問題行動をしている人間がいたら批判されるのは当然である。が、じゃあそれは適切な相手に適切な言葉を選んでいたらの話で、批判をしている人ってそういうことはしないでしょ。



ぼくのかんがえたさいきょうのわるぐちを得意満面に披露してるだけじゃないか。

ただ罵倒の羅列を「キレた発言」と思ってないか。

社会で評価されてる立場ある人間を批評できる自分に対して逆説的な知性を感じてはいないか。

他人が時間をかけて作り上げたモノを数秒で考えた理屈で殴ってインスタントに自己証明をしていないか。



ただストレスの吐き口を探してるだけで、中傷や罵倒によって間接的に得られる感情的対価を報酬として求めていたり、副次的にそれが得られてしまう状況にあらがえずに必要以上の言葉で何かをせせら笑ってしまっていないか。


でも自分で口にできるならまだマシな方で、最悪になればなるほど「自分が嫌いなものを批評、否定している人がいるならいいねを押して、支持することで自分の主観を客観的事実として認識」したり、「嫌いな人間がいる」という事実を利用して自分の正しさを承認されようとする。
あの作家の作品はあの大御所作家に嫌われてるんだぜー、とか。なんじゃそりゃ。知らんがな。


しかも今度はニュースやSNSのまとめのコメント欄には、そういった否定的なネガティブな感情を慰撫するためのスポークスマンみたいな人が常駐している。してない? こう、いいねされるためだけにいるような支離滅裂だけど否定的意見はしてるやつ……。いいねする人から見たら、いいねを押しただけで自分の中の「自分の嫌いなこいつは客観的にダメなのだ。自分は正しい」の脳内ストーリーを補強してくれると重宝されてそうな人……。でもいいねをされた時点でした人の目的は完了しているのでスポークスマンが反論されて困っていても別に助け船を出しにくることはないし、そもそも名前すら覚えられてない。


そして、そういった人たちが殴り棒として、前述の出来の良い批評とかを使い、「よって俺の嫌いな作品はダメなのである!!!」とおちょくり出すのだから、いやーなんともはや。


人間はネガティブな情報を過大に評価する性質があるそうなので、SNSといった他人の目に触れる場所でどんどん性格の悪い言説が強化されるのかもしれん。人間の衝動と感情に結びついているから、こういった安直な批判、中傷の形にしかなっていない感想はなくならないんだよね。
しかも批評と違ってすぐ数も打てるから癖になるし。


ただの口汚い、自分の感情を理屈の体裁をとって主張できず、客観と主体を分けて事実関係を整理して理屈として話さない。

そこに頼り出したらなかなか抜け出せずに仲間うちで下品な言葉で批判をしあうのが常習化してしまう。
だから批判には依存性があるだろうなぁ、と思ったのでしたとさ。嫌いな作品を軽薄に扱っている人間を見ると、そこから自覚して脱却するのは、相当な労力がいるだろう。新たな見方や楽しみ方、知らない世界を読むための副読本となる解説を提供してくれる批評の面白さは、ただ性格の悪いことを言ってワイワイ騒ぐことからは得られない。無論身内で言い合う分には面白いので、それでいいならいいがなー。

などとインターネットをしていると思うのでした。


人愚生命根絶。